1999年
[第8号]東アフリカの中のケニア

ナイロビ駐在員  明城 徹也

アフリカ東部の赤道直下に位置するケニアはソマリア、エチオピア、スーダン、ウガンダ、タンザニアと国境を接しており、ケニアとそれらの国々との関係も様々です。

ケニアの北側の国境を接している国々では、ソマリアとスーダンは内戦中、エチオピアはエリトリアと紛争中といった具合に治安状況が非常に悪く、特にケニアの北部ではその影響は少なくありません。それらの国々から不法な武器が非常に安く輸入され、武装集団が同地域の治安を脅かすこともしばしば報道されています。また、ナイロビでもブラックマーケットではそれらの武器が簡単に手に入れられるということで、周辺諸国の情勢がケニアの治安の悪化に一役買っていることは間違いありません。

業を煮やしたケニアのモイ大統領は不法武器の流入を防ぐために先月ついにソマリアとの国境を封鎖してしまいました。ナイロビからCanDoの事業地のあるムインギへ行く道も、東はソマリアまで繋がっているため途中に検問がいくつもあり、警戒は厳重です。

それに反して、ケニアの南側と西側の国境を接するタンザニアとウガンダは比較的安定しており(ウガンダ北部では一部内戦状態のところもある)、ケニアと両国との関係は非常に親密です。これらの三ヶ国は共に1960年代にイギリスから独立し、公用語として英語を使っているという共通点があります。現在ではこの三ヶ国で東アフリカ協力機構(EAC)を形成し政治経済の両面で協力体制をとっています。

しかし、最近ではこのEACの次なる段階の部分で各国の意見の違いが徐々に現れてきています。比較的経済の発展しているケニアは3ヶ国の市場統合をめざし、関税の撤去等を強く主張しているのに対し、タンザニアは自国の産業の保護を優先させたく、新しい条約がなかなか締結できないのが現状です。EACの拡大版として、東南部アフリカ共同市場(COMESA)がありますが、タンザニアは同様の理由からつい先日脱退してしまいました。市場統合についてはまだまだ議論を重ねなければいけないといった状況です。

アフリカでは、コンゴやアンゴラをはじめ、まだまだ争いが絶えませんが、早く平和になってほしいものです。



(1999年9月発行 会報第8号「ナイロビ便り」より)


[第7号]不況のさなか ナイロビ市内に噴水が出現!

ナイロビ駐在員  明城 徹也

最近ケニアでは、コレラ、腸チフスの流行、Army Wormと呼ばれる害虫(アワヨトウの幼虫)の大発生による農作物への被害、干ばつの心配、治安の悪化、経済不振など暗いニュースばかり目に付きます。経済不振は、CanDoが支援する奨学生の保護者との会議のため、ルーベンスラムを訪れたときにも実感しました。私にとっては1年半ぶりの訪問で、最初にスラムが拡大されていることに驚かされました。以前はただ道や原っぱだったところにもトタンの小屋が立ち並び、面積的に広がったのはもちろん、密度もかなり高くなったという感じがしました。同スラムは工業地帯のすぐ近くにあります。工場の中には閉鎖されたものや大幅に人員を削減したところなども多く、奨学生の保護者達の収入に大きな影響を与えていました。今年初めにCanDoと保護者の間で決められた学費の保護者負担分が支払えなくなり、CanDoに追加の援助を求められることも予想されます。あと二年で奨学生も全て高校を卒業できる予定なので、CanDoとしても保護者とともにがんばっていきたいという思いです。

最近、唯一の明るい話題(?)としては、先月末に「東部・南部アフリカ共同市場(COMESA)」の首脳会議及び貿易博覧会が21か国の代表を招いて華やかに行なわれました。会場となったナイロビのケニヤッタ国際会議場の周辺では、厳戒体制が敷かれ、たくさんいたストリート・チルドレン(路上で暮らす子どもたち)はいなくなりました。緊急に道路が修復され、街路樹や花が植えられ、歩道が整備され、メインストリートの交差点には何と500万ケニアシリング(約1200万円)をかけて作られた噴水が出現し、ナイロビ市民を驚かせました。

現在ではCOMESAも終わり、先日は大規模なデモで警官隊と衝突騒ぎがあり、ストリートチルドレンはどこからか戻り、ナイロビは普段の顔に戻りつつあります。でも、噴水の勢いは予想外?にまだ衰えていません。

(1999年6月発行 会報第7号「ナイロビ便り」より)




「第6号」1998年のケニア概況
       「エル・ニーニョ」による豪雨、そして米大使館爆破事件の影響は大


政治
1997年12月末の総選挙で現職のモイ大統領が再選された。1978年以来20年にわたる長期政権が、あと5年延長することになった。選挙に引き続き、副大統領が任命されるはずだったが、結局大統領の政治的判断で、任命しないまま1年あまりが過ぎた。

今年はどのような動きがみられるのだろうか。

社会・経済
1997年暮れのエルニーニョ現象に伴う豪雨のため、ケニア各地で交通や通信のネットワークが遮断されて、経済がしばらく大混乱に陥った。

中でも、ケニアの大動脈であるモンバサ街道が途中の橋が洪水で流されたために寸断されたことの影響は大きい。首都ナイロビと港町モンバサの間の物流が麻痺して、ケニアの経済にとって大打撃となった。現在もまだ、復旧の作業が進められている。

治安
ケニアの治安は悪化の一途を辿っている。1998年8月のアメリカ大使館爆破テロ事件は、ほぼ同時刻に爆破された在タンザニア米国大使館での被害者を含めると、約270名の命が奪われ、5000名に及ぶ負傷者がでた。より日常的な事件としては、車強盗があげられる。これにより援助関係者や外交官が何人も命を落としている。そして、強盗による死傷事件も、夜間だけでなく白昼の路上でも頻発し、在留外国人だけでなく、ケニア人も治安の悪化を肌で感じている。

低迷している経済を反映しているものと思われる。

NGOをめぐる動き
ケニア政府によるNGOに対する「締め付け」がさらに強められたことも、1998年の象徴的な出来事かもしれない。

前述の爆破テロ事件にイスラム系NGOが関与していたことが判明し、いくつものイスラム系NGOが登録を抹消された。

それまでにも政府は決してNGOの存在を快く思ってはいなかったようではあるが、事件を境に、さらに態度を硬化させた。イスラム系に限らず全てのNGOの新規登録や、外国人職員に対する就労ビザの発行が制限されている。

今後もその傾向が変わるとは考えにくく、1999年もケニアで活動するNGOにとって厳しい状況が続くだろう。


(1999年2月発行 会報第6号「ナイロビ便り」より)