2008年
[第45号]さようなら、バリー・アーケードのキオスク

調整員 橋場美奈

CanDoナイロビ事務所にかかわったことのある人なら、誰もが知っている、バリー・アーケード(ショッピング・センター)横のキオスク(小規模な店)。11年前、設立準備を進め、隣の高層アパートに事務所*を置いたときから、そこにあった「チェアマン」と呼ばれる安食堂のチャパティやチャイの味を、おそらく全ての旧・現スタッフ、インターンが知っている。

9月末、この食堂をはじめ、軒を並べていたキオスクが、ナイロビ市役所によって、いきなり立ち退きを命ぜられ、即、取り壊すことを強いられた。もともと基礎構造もなく、木の継ぎはぎでできた掘立小屋だったので、一瞬にして取り壊しは行なわれ、バリー・アーケードの様相は一変した。

「チェアマン食堂」では、チャパティと豆・野菜のおかずのセットが、ここナイロビでも今時では安い、30シル(約40円)で食べられた。バリー・アーケード界隈の職人やドライバーなどのケニア人で溢れかえって、活気があった。ケニア人スタッフのエバンスだけでなく、日本人もよく利用した。値段もさることながら、仕事に忙殺される毎日、この食堂に立ち寄ると、私は彼らの様子を見ているだけで元気をもらったように思う。

キオスクや野外で商いを営む人たちは互助的なグループを形成している。「チェアマン」は、ここのキオスクのグループの「議長さん」の店だった。取り壊し後、1か月程は、まさに「ジュア・カリ(強い日差し)」として、完全に野外で営業していたけれど、故郷に帰ってしまった。何とか生きていくだけの糧を得ていた人々が職を失い、行き場を失っていることだけでなく、これまで助け合ってやってきた人たちが散り散りになったことにも、私は憤りを感じる。

立ち退きはバリー・アーケードの話だけでない。最近、ナイロビ中いたるところでキオスクが取り壊されている。ナイロビ市内の美化計画のためだという。キオスクの人たちは、これまでナイロビ市役所に営業許可料を払い続けて、商売をしていたことを考えると、何とも不条理である。それでも、市役所とのいたちごっこのように、その目をかいくぐりながら、必死に商売している人たちもまだいる。

キオスクがあるのはスラムの中だけ、となる日は近いのだろうか。市内にキオスクがなくなったら、ナイロビの魅力は激減する。バリー・アーケードのキオスクに通った日々を振り返り、そう言い切れる。

*2003年にバリー・アーケードから少し離れた事務所に移転。今年初めからの事務所は、それよりも近いところにあります。

(2008年12月発行 会報第45号「ナイロビ便り」より)
[第44号]全国300以上の高校で暴動

調整員 エバンス・カランガウ/インターン 小山弥里 訳

ケニアでは高校での暴動は珍しくありません。例えば2001年には、およそ250件の暴力的・破壊的なストライキが起こっています。しかしながら、今年は2学期(5月〜8月上旬)の間だけで300以上の高校で暴動がありました。しかも、学校に放火するという、これまでにない事件が起こっています。ナイロビ市内の高校では、燃やされた寮で男子学生が1人亡くなりました。また、学生寮の焼失の被害が、2000万シリング(約3300万円)に以上にのぼった高校があります。暴動が起こったのは、ケニアにある全高校の0.4%ではありますが、深刻な問題です。

学生たちの行動は、教育法やこども法によって体罰が禁止され、過保護になっているために起きたのではないか、という議論を保護者や教育者はしています。体罰を復活させるべきだ、という意見の一方で、学生への虐待や体罰は実際に行なわれていて、それが原因になったのではないか、という意見もあります。ずさんな学校運営、時間管理のまずさ、学校資金の乱用、施設の不備、過重なカリキュラム、厳しい試験、物理・化学が必須科目になっている負担、セクシャル・ハラスメント、上級生のイジメなども引き合いに出されています。また、学生に携帯電話が普及していることが、騒動を急速に拡大させた要因として指摘されています。総選挙時に約束された高校無償化のための資金が、政府からいまだに交付されていないことへの不満もあげられています。総選挙後の暴動の影響も大いにあります。今回の暴動での火炎びんの使用、ガソリンを使っての放火は、騒乱での大人たちの行動を真似たといって間違いはありません。避難民の子どもを多く受け入れた地域では、特に見られます。

今後の対策として、学生と保護者との関係の改善、宗教教育の重視、必須科目の選択化、学校運営への生徒の参加、カウンセリングの再導入、クラブ活動の活性化などがあげられています。また、学生の携帯電話の禁止、テレビやビデオを装備した豪華スクール・バスの禁止なども議論されています。教員については、全員へカウンセリングの在職研修を実施することや、5年ごとの学校の異動などが提案されています。また、過重な学習を強いられている学生に休みを与え、保護者とふれあう時間をつくるために、休校期間中の授業は禁止されました。当会のムクル・スラム群での活動は、許容される帰省先での補習の範囲との理解で実施しました。


(2008年9月発行 会報第44号「ナイロビ便り」より)
[第43号]騒動後の調停と結果

調整員 エバンス・カランガウ/インターン 西森光子 訳

2007年12月27日の総選挙で、選挙管理委員会は現職のムワイ・キバキ氏(PNU−国家統一党)が大統領に当選と発表しました。それに対し、ライラ・オディンガ候補が率いる野党、ODM(オレンジ民主主義)は正当性について抗議。どちらも勝者であると主張し、血を流す暴動が引き起こされました。ケニア国内の混乱は国際的な関心を集め、調停のために潘基文(パン・ギブン)国連事務総長(2008年2月初めに訪問)をはじめ、海外から要人がナイロビ入りしました。

早い段階の2008年1月初旬、アフリカ連合(AU)議長のジョン・クフォー氏(ガーナ大統領)と南アフリカのデズモンド・ツツ司教、次に3人のアフリカの元・前大統領が訪れました。しかし、成果をあげられず、ベンジャミン・ムカパ前タンザニア大統領を除きケニアを離れました。 1月下旬、AUに委ねられ、前国連事務総長のコフィ・アナン氏をムカパ氏らが補佐する代表団が、和平調停に向けて動き始めました。暴力の停止、権力の分配による政治的解決、そして危機の根本原因である長期的課題の解決を主要な議題にあげ話し合いを重ねました。

2月28日、キバキPNU党首とオディンガODM党首は、首相職の新設を含む、連立政権の協力に関する合意に署名しました。PNU/ODM-K(PNUとオレンジ民主運動ケニアの連合)とODMの間で組閣が進められ、省庁の数や大臣職を巡ってもめた末、4月13日、キバキ大統領は42人の閣僚を任命しました *1。オディンガ首相とカロンゾ・ムシオカ*2副大統領(ODM-K 党首)の間で、難しい両者の立場をめぐり、衝突が起きています。

組閣後、ナイロビなどで「ムンギキ」と呼ばれる集団による暴力行為が激しくなり、交通機関や商業活動を麻痺させています。ムンギキは、共通した背景や考え、社会への不満を持つキクユ人の若者たちで構成されたギャングのような組織です。彼らの多くは、職も土地も持つことができません。「連合政権で自分たちの要求はこたえられなかった」と主張しています。

5月に入り、政府は国内避難民の帰還を始めると発表。安全の面での懸念とともに土地所有の問題があがっています。これは調停で合意された、解決すべき長期的な課題のひとつ* 3です。

*1 2007年12月27日の選挙で選出された議員数は207人
*2 大統領選では第3の候補。2008年1月8日発表の内閣で、副大統領に任命。
*3 ほかに、貧困と不平等、失業問題(特に、青年に多い)への取り組みなど。


(2008年6月発行 会報第43号「ナイロビ便り」より)
[第42号]2007年のケニア概況   年末の総選挙から暴動が発生
2007年のケニアは、格差の問題を伴いつつも、この数年来の経済の成長が継続し、好況感がありました。

高級な集合住宅の新築が目立ち、街を走る乗用車の質がよくなり、量も増え、高級レストランにケニア人が多く食事に来るようになりました。それまでのごく一部の富裕層と大多数の貧困層からなる社会の状態から、中流層が大幅に増えて、目立つ存在になったように思われます。一方、貧困層の暮らしが大きく改善された様子は見当たりません。

2007年12月27日の総選挙では、現職の大統領、ムワイ・キバキ氏(国家統一党-PNU)と有力とされているライラ・オディンガ氏(オレンジ民主運動-ODM)という主な候補二人には、その主張する政策に大きな違いはありませんでした。

事前の世論調査での支持率が拮抗していたこともあり、民族グループを支持基盤とし、相手民族グループを非難する戦術が横行しました。また、他の民族グループの多くも、2大グループのいずれかと明確な形で連合しました。

そして、12月30日、キバキ氏勝利の選挙結果の発表に対する不満を引き金に、各地で暴動や襲撃が発生し、時間とともにそれらへの報復も発生し、民族対立の様相を呈した混乱へと展開しました。

民族間の格差による対立といわれますが、対立を先導しているのが、それぞれの民族のなかの富裕層で、混乱の中で暴力の被害者となり、加害者ともなっているのが、それぞれの貧困層であるようにもみえます。
この混乱で、ケニア経済の停滞、国家財政の逼迫、さらに国際援助の縮小などが予想されます。その中で、中流層が、一旦獲得した経済的な豊かさを維持しようと努力することが、貧困層のさらなる貧困化につながるのではないかと心配されます。

現在、このケニアの混乱を収束させるために、国政レベルでの和解と権力の分掌が話し合われています。これを出発点として、富裕層の和解のみにとどまらず、民族グループを横断した貧困層全体の安全の保障と貧困の解消につながる政策、それを支援する開発援助の実現につながってほしいと思います。貧富の格差縮小が、問題の根本的解決にとって不可欠だと思います。


(2008年3月発行 会報第42号「ナイロビ便り」より)