2005年
[第33号]憲法改正案の国民投票の結果

総務助手  アントニー・ワイナイナ / 調整員  藤目 春子

2005年11月21日、ケニアでは憲法改正案の国民投票を実施。治安の悪化が心配されましたが、政権が交代した3年前の総選挙同様に、ほぼ平穏のうちにすみました。

モイ第2代大統領(1978年〜2002年)は1982年に一党制を法制化し、独裁を続けていました。91年に複数政党制が再導入されましたが、92年、97年の総選挙で与党が勝ち、変わらず大統領は権力を濫用していました。状況を変えるには、「首相を創設して権限を付与し、大統領の力を縮小させる」ことをポイントにした憲法改正しかない−それが野党の結論でした。

2002年、モイ大統領は、またさまざまな圧力から、憲法検討諮問委員会を招集し、10月にボーマス・オブ・ケニアで最初の国民会議が開かれました。当初、憲法を改正して総選挙を行なうとしていましたが、「時間切れ」として会議は解散され、総選挙が実施されました。大統領が後継者を指名したその選挙では野党が勝ち、キバキ政権が誕生しました。

選挙時に「憲法改正」を公約に掲げていたキバキ第3代大統領は、ボーマス会議を復活させます。「大統領と首相の関係」「地方分権」といった権力分散が問題になりました。意見を統一できないまま、2004年の第3回会議を経て、「大統領の権力縮小」と「首相の分限」が入ったボーマス案が作成され、議会へ提出されました。しかし、一部議員による首相の権限を縮小する修正案が通り、それを受けた憲法改正案を法務長官がまとめて、国民投票に問いました。

ボーマス案では、「首相は、最大与党の党首」と規定し、「内閣は、首相が指名した候補を大統領が任命」としていました。しかし、憲法改正案では、「首相は、大統領が任命」し、「内閣は、大統領が(首相の指名なしに)任命」することになっていて、首相は象徴的な地位に過ぎません。「強力な大統領」が復活しています。このほかの争点だった地方分権や、宗教裁判所、土地改革なども、原案とは内容が異なる形で改正案に入っていました。

けれども、大部分のケニア人は、憲法をどうするかというよりは、「キバキ大統領の政治に賛成か反対か」ということで、投票を行なったようです。そして、反対派が圧勝。大統領は、結果発表後すぐに、その結果を受け入れると宣言しました。しかし、翌日内閣を解散し、12月7日に発表された新内閣からは反対派大臣がはずされていました。また、任命された大臣・副大臣の多くが就任を拒否していて、今後の動向が懸念されています。


(2005年12月発行 会報第33号「ナイロビ便り」より)


[第32号]ムクンガ氏を悼む

調整員  藤目 春子

知らせは1本の電話でした。いつもの携帯番号へかけたのに、知らない人の声でした。ムクンガ氏と話したいというと、義理の息子だというその人は言いました。

「ムクンガ氏は昨日(2005年5月23日)亡くなった。しばらく病気だったんだ」

ムクンガ氏は、当会環境事業専門家として、1999年からずっと働いてきました(会報第13号で紹介)。私は2000年7月、環境事業が立ち上がった直後にCanDoに加わり、1年半ほど環境事業を主に担当していました。

ヌーの現場へ行くときは、ほとんどいつも、ムクンガ氏と一緒でした。たくさんの時間を一緒に過ごしました。赤道直下の太陽が照りつける中を、カラカラになりながら、現場の道をテクテク何時間も一緒に歩いたこともあります。道すがらしたいろんなおしゃべりは、どれも忘れてしまいました。でも、ムクンガ氏を身近に感じていたあのときの空気は、今もしっかりと心に残っています。

ムクンガ氏と一緒に事業を作っていくことは、必ずしも楽ではありませんでした。ムクンガ氏はそれまでの長い経験や自分の思いから、環境事業に対して強いものを持っていました。それは必ずしも当会の方針と合うものではなく、その度に辛抱強く話し合う必要がありました。それは決して楽でも楽しくもないことでしたが、話し合うことのできたムクンガ氏の人柄を、私は尊敬しています。自分の娘といってもおかしくない年齢の、何も分かっていない小娘の言うことに、反論することはあっても、聞く耳を持たないことはありませんでした。私が一度、長期の一時帰国をしていたとき、私とは議論ができたといってムクンガ氏が私のことを懐かしがっていたと、他のスタッフから後で聞いたことがあります。話し合い、一緒に事業を作っていけたことを、私は感謝しています。

私はまだ、ムクンガ氏が亡くなったことを受け止められていません。10年前に父親を亡くした私にとって、おじさんと呼んで親しんでいたムクンガ氏は、いつの間にか私の中で父親のような存在になっていたのかもしれません。その死を受け止められるようになるには、まだまだ長い時間がかかりそうです。

心より、ご冥福をお祈り申し上げます。

ジャフェス・キマンジ・ムクンガ
ダルエスサラーム大学で植物学・動物学を専攻。卒業後、軍隊で11年を送る。退役して、国連、NGOなどで環境分野の仕事に従事。享年54歳。

(2005年9月発行 会報第32号「ナイロビ便り」より)



[第31号]昨年の小雨季、橋が流れて残った疑念

調整員   藤目 春子

ケニアは今、3〜5月の「大雨季」が終わろうとしています。11〜12月が「小雨季」です。「大小」といっていますが、英語では「長短」で、降雨量が多いのは、小雨季のほうです。乾燥しているCanDo活動地のムインギ県でも、この時期は雨がかなり降り、乾季には水のまったくない涸れ川(季節河川)も、たくさん水が流れます。

そのひとつ、ムインギ県のグニ郡グニの町にある幅10〜20メートルの涸れ川は、雨季は危険な場所となります。過去に何度も人が流され、2002年12月の大統領選挙のときは、投票用紙を積んだバスが橋から落ち、川底の砂地にはまりました。

この橋は、川底を鉄筋コンクリートで高くしたもので、下を水が流れるのではなく、橋の上を水が流れます。昨年、この橋にどこかの資金がついたのか、業者がやってきて、資材も全て外部から持ち込み、何やら工事が始まりました。橋の幅を広げようとしていたようで、補強もねらっていたとも思われます。

この工事が完成しないうちに、前回の小雨季はやってきました。そして、本格的な降雨となる前に、川に水が流れたときに工事中の橋の一部が流されてしまいました。

「雨季の前までに終わらせなかったからだ」という声が出ます。また、「きっと、セメントに対して砂をたくさん混ぜ過ぎて、コンクリートの強度が弱かったのだろう」という見方もあります。高価なセメントをたくさん使わず、予算より低い工費で仕事を終えて、その差額は施工者の元に入ったのでは、という疑念です。

橋の壊れた部分で、川の流れが変わり、激しくなったため、相当水が引くまで、車の通行ができなくなってしまいました。少し先には、川底が少し高くなっていて、水かさも膝下で流れも緩やなところがあります。車が立ち往生しているのを横目に、砂地を住民が安全に歩いて川を渡っていました。けれども、車で渡ろうとすれば、タイヤが埋まってしまいます。

実は、11月に当会の他の調整員が乗った車も立ち往生しました。そのときに、付近の人たちから情報を集め、また、同行していた建設専門家から橋の評価などを聞きました。調整員の報告によると、施工者が受け取った額は経費の4倍になる思われるそうです。地元選出の国会議員が、この件を知って激怒し、その力で補修が進められ、現在は使えるようになっていると聞いています。


(2005年5月発行 会報第31号「ナイロビ便り」より)


「第30号」2004年のケニア概況
       キバキ政権の誕生から2年、課題解決のめどがつかず国民に不満



2002年12月末に、これまで長期間政権を維持してきたモイ大統領に代わって、キバキ大統領が選ばれ、連立政権である国民虹の連合政権(NARC)が誕生しました。

2004年の末で、2年になります。政権交代のなかで、議論され、国民が変化を期待していた課題が、なかなか解決のめどがたたずに、国民の不満が膨らみつつあるように思えます。

まず、モイ政権末期に議論されていた大きな課題に、憲法改正があります。

キバキ氏をはじめとする当時の野党陣営は、憲法改正により総理大臣職をつくり、大統領の権限を縮小する主張を行ないました。それについて、国民的な合意は形成されていた、といわれています。

ところが、キバキ大統領の出身母体である政党(DP)の国会議員を中心に、反対に大統領の権限を維持する憲法改正が主張されたのです。憲法改正議論は収拾がつかなくなりました。

新政権は、改正を行なう期限を政権発足から100日以内と約束し、その後、2004年6月末まで延長しましたが、憲法改正は実現できませんでした。

このため、モイ政権時から憲法改正の国民的合意形成に中心的役割を果たしてきたガイ憲法制定会議議長が、不満の意を表明して辞任してしまいました。

また、DPを中心に、政党の連合体であるNARCを、党員登録を一本化して単一の政党にしようとする動きがあります。NARC参加政党のなかには、この動きに強く反発して独自の党員登録を行なおうとして、政党間の大きな対立となっています。

汚職の追放も、新政権の重要な公約です。 

しかし、モイ政権時代に、警察の法医学研究所を請け負って建設しなかった会社が、新パスポート製造システムを実勢の6倍の価格で契約した事実が発覚しました。関与した当時の高級官僚が逮捕されました。キバキ政権になってからの大臣や高級官僚による汚職の疑いが、国防治安部門の資機材調達などを中心に、次々に明らかになっています。国民から、国際社会から、キバキ政権の汚職対策の遅れが非難されています。  

キバキ大統領は、「汚職対策は局地的な戦闘ではなく、全面的な戦争である」と国際社会に対して状況への理解を求めています。


(2005年3月発行 会報第30号「ナイロビ便り」より)