2003年
[第25号]小学校の無償教育政策

代表理事   永岡 宏昌


ケニアは、1963年の独立以来、公的な学校教育を重視する政策をとりつづけています。国家財政が限られている中で公教育を推進する方法として、小学校の形成および運営に関して、保護者を中心とする地域社会の参加・協力を得てきました。

地域社会が資金と労働力を拠出して小学校を建設し、教育備品を揃えれば、有資格教員を公務員として派遣する制度です。教員への給与は国が支給するため、小学校の授業料は無料です。しかし、昨年までのモイ政権では、学校の守衛や給食調理スタッフの給与、チョークなどの教育消耗品、試験料、会議費や課外活動参加費などの運営経費を、保護者は小学校へ支払う必要がありました。教室の増設に必要な開発基金も同様です。

また、小学校の運営主体は、保護者と地域社会の代表者から構成される学校委員会で、教員からは校長のみが議決権のない書記役として参加していました。

昨年末に発足したキバキ政権は、小学校の無償教育政策を強く打ち出し、保護者は運営経費を払う必要がなく、校長は保護者からお金を徴収してはならない、としました。そうしたところ、通常の新入生ばかりでなく、これまで適齢時に就学しなかった年齢が上の子どもたちも、大挙して入学する現象が全国でみられました。このことから、保護者が教育の意義について無理解なのではなく、金銭的な負担が子どもを小学校へ行かせることを妨げていたことがわかります。

本年度については、世界銀行やイギリスより、これまでにない潤沢な資金をえて、新政権は、教科書・教材購入費と運営経費にあてる資金を全国の小学校へ供与することができました。しかし、運営経費が毎年確保できるか、ということは不確実です。さらに、教室や施設の拡充のための資金については、政府が十分に確保することは難しいと思われます。

一方、保護者には、これまでさまざまな形で負っていた小学校運営の責任から解放された、と理解する雰囲気や過大な期待が根強くあるようです。これからの小学校教育において、政府と保護者・地域社会との新たな役割分担についての合意形成が必要と思われます。

(2003年12月発行 会報第41号「ナイロビ便り」より)


[第24号]引っ越し事情

調整員  藤目 春子

今年5月、手狭になっていたナイロビ事務所は引っ越しました。まず大変だったのが部屋探し。事務所使用を認めないアパートが多く、一方、事務所用の物件は住居を兼ねたい私たちには不向き。ようやく見つけた物件は、家主委員会の存在するアパート。当会があたった部屋の大家は、委員長の確認を取った上で、事務所使用を認めてくれました。

物の移動も大変でした。事務所兼数人(長期出張者を含む)の住居なので、書類も生活用品も大量。日本なら梱包用にダンボールをコンビニやスーパーでもらえますが、ケニアのスーパーはお客が買った物を運ぶために確保していて、普段利用しているからといって分けてくれません(ちなみにコンビニはありません)。事務所中にあるダンボールをかき集め、足りない分は諦めて、何とか梱包しました。

引越し当日は、運転手・運び屋付きのトラックを借りました。その日事務所にいた3人は、旧事務所で搬出の指示、新事務所で搬入の指示、その間でトラックと一緒に移動、と別れて作業しました。監視の目は足りず、いくつか物が紛失しました。傑作は、飲む人がほとんどなくて、台所にたまった飲みかけの酒類。1人で運べるものを4人がかりで、やけにうれしそうに、運んでいるなあと思って見ていたら、いつの間にか全て消えていたそうです。かわいい(?)窃盗です。

引っ越してからも事件は続きます。まず、大家は認めたのに、まわりから、事務所使用に対する異議が出たのです。結局は、ここに住んでもいるという事情から、家主委員会で無事承認を得られました。

電話線の開通も大変でした。電話会社は、設備が無いから引けないと言うのです。このアパートは当時、入居開始後1年未満の新築。部屋にジャックはあるのに、建設時にメインの回線から建物へ回線を引き入れておらず、その部分は家主の責任だと言われてしまいました。地上回線の無い事務所は非常に不便です。「また引っ越しか?」とため息をつきながら3か月近く奔走して、ようやく「無線による地上回線」というものを取得できました。

引っ越して4か月。最近ようやくここが「我が家」になってきました。


(2003年9月発行 会報第24号「ナイロビ便り」より)


[第23号]モンバサでのテロ、その後

調整員  藤目 春子

大統領選挙・総選挙を控えて緊張が高まっていた2002年11月28日、インド洋沿岸の都市モンバサの郊外で、乗用車による自爆テロが発生しました。被害を受けたのはイスラエル人団体観光客がよく利用するホテルで、従業員らケニア人9人と3人のイスラエル人観光客が死亡、と報道されました。

ほぼ同じ時刻に、モンバサのモイ国際空港では、離陸直後のイスラエルのアルキア航空のチャーター機へ向けて2発のミサイルが発射されました。幸いミサイルは命中せず、264人の乗客と乗員は無事テルアビブ空港に到着しました。

事件直後、テロリストの背後組織に関する観測もありましたが、数人が事件直後に逮捕されたという情報を最後に、事件についての報道は途絶えていました。

5月14日、モンバサのテロと1998年8月のナイロビでのアメリカ大使館爆破の容疑者が、指名手配されました。コモロ諸島出身の20代後半の男性で、コモロとケニア両国の市民権を有し、ソマリアの首都モガデシュとナイロビを行き来している、と報道されています。ソマリアは内戦状態にあり、出入国審査も存在しません。そんなソマリアと長い平原の国境で接しているため、ケニアへはテロリストも武器も入りやすい現実があります。

ケニアでの容疑者が指名手配される2日前、5月12日にサウジアラビアでテロが発生。ケニア国防省は、再びケニアでテロが起こる危険性を即時に警告しました。

テロ反対の立場から、イラク戦争開始の前後は、戦争を支持するケニア市民も多かったと聞いています。その一方、犠牲になるイラクの一般市民への同情も広く見受けられ、モスクから反米デモが出たりもしていました。

日本政府は「積極的戦争支援国」である、とナイロビでは早くから見られていたようです。市街のオフィス・ビルのエレベータに乗り合わせた見ず知らずのケニア人から、いきなり「日本はイラクから遠いのか?」と聞かれたことがあります。「日本とケニアぐらい遠い」とかなり大雑把な返答をしたところ、「だからイラクで何が起こっても良いのか」とつぶやかれました。

戦争終結後、ケニアでは、結局戦争の目的はテロ防止などではなく、石油などの利権のためだったという見方で、反米感情が高まっているようです。

(2003年6月発行 会報第23号「ナイロビ便り」より)



[第22号]2002年のケニアの概況 -総選挙で政権が交代-

2002年12月、選挙により、ケニアは1963年の独立以来、初めてKANU(ケニア・アフリカ民族同盟)からの政権交代が実現した。

今回の総選挙(大統領・国会議員・地方議員)では、終盤に至るまで、旧与党KANU内での大統領候補指名に社会の注目が集まった。

当時のモイ大統領(注*)は、まず、若手の国会議員から後継大統領を、としてKANU副総裁へ4名抜擢した。そして、この副総裁4名をふくむ数人が大統領への意欲を公言しはじめるなかで、モイ氏は、副総裁のひとりケニヤッタ氏を後継者として指名する。

その他の大統領に意欲を示す議員は、これに反発し、また、党内の一部議員からも党規則に沿った大統領候補選出を求める意見が公表された。これに対して、モイ氏は、ケニヤッタ氏後継の理由を特に説明せずに、「長老の意見には黙って従う」ことを求めて立候補希望者の切り崩しを行なった。

モイ氏にあくまで反発するKANUの党内グループ「虹」(Rainbow Alliance)の議員は離党し、野党連合に合流して「虹の連合」を形成した。そして、統一大統領候補としてキバキ氏を推して総選挙に臨んだ。その結果は、大統領・国会議員選挙ともに虹の連合の勝利となった。

12月27日の投票、29日の選挙管理委員会による大統領の決定とケニヤッタ氏の敗北宣言、30日の大統領就任式と迅速に政権交代が行なわれた。

この選挙は、大きな混乱も予測されたが、各大統領候補をはじめ、広く社会全般にわたって、平和かつ公正な選挙が繰返し強調された。明確な敗北宣言と迅速な政権交代が行なわれるなど、ケニア社会の成熟度・民主化度を確認することができた。

ちなみに、いったん大統領候補となる意思を公言し、その後、モイ氏に説得されてケニヤッタ氏支持に回った議員は、いずれも出身選挙区で落選。また、KANUの強力な支援を受けた候補者のひとりは、選挙区に短期間で電力線をひき、議員報酬を全てそこでの開発に使うと公約していたが大差で落選した。これらも社会の成熟度のあらわれであろう。

(注*)1978年、初代のケニヤッタ大統領の死去により、副大統領モイが第2代大統領に就任。

(2003年3月発行 会報第22号より)