2001年
[第17号]ソマリアの国境閉鎖とミラー

代表理事   永岡 宏昌


7月28日、ケニア政府は、突然にソマリアとの貿易を禁止した。理由は、ソマリアの内紛が一向に収まらず、ケニアへの小火器の不法流入が続いているため、業を煮やしての決断。この国境閉鎖は、ソマリアの誠治グループ代表がナイロビで和平についての話し合いをするまで3ヶ月続いた。

この出来事を伝える一連のNation紙の新聞記事は、ほぼケニアのミラー輸出産業との関連で書かれている。

ミラーは「軽微な覚醒作用のある草」で、ケニアでは合法である。ケニア山麓で商業栽培され、ケニアの北東部州や沿岸州、さらにソマリアなどに出荷されている。これは、生の新芽の茎を噛むものなので新鮮さが大事だ。生産地からナイロビへ深夜に車で運ばれ、毎朝のように何台もの軽飛行機に詰め込まれて、北東部州やソマリアに空輸されている。

貿易禁止に関して、武器流入阻止の実効性の疑問と共に、批判の声があがった。ミラー産業だけで50万人の農民が影響を受け、約1億米ドルの経済的な損失となると早々に分析されたのだ。

8月7日には、ミラー業者は、この貿易禁止を避けるため、軽飛行機で一旦ウガンダのカンパラへ輸出して、その後ケニアを飛び越えてソマリアに運び込んでいることが報道された。

さらに、禁輸から1か月後の8月28日には、ルートはさまざまだが、禁止前と同じように、軽飛行機10機が毎日ソマリアに飛ぶようになっていることが報道された。まず、ナイロビからソマリア国境の町に飛ぶ許可を得る。あるケースはそのケニア側の町からトラックでソマリアに持ち込む。また別のケースは一旦ケニア側の町で少量のミラーを降ろしてナイロビに戻ると見せかけてソマリアへ飛ぶ。さらにはナイロビから真っ直ぐソマリアへ飛ぶケースまであらわれた。

そして、再び国境問題に関して報道されたのは11月6日。ナイロビでモイ大統領がソマリアの政治グループ代表と話し合いをもって、国境の再開に合意した翌日だった。


(2001年12月発行 会報第17号「ナイロビ便り」より)


[第16号]マタトゥで着メロ −ケニアでも(?)固定電話よりも携帯電話-

事務局長  國枝 信宏

10ヶ月ぶりのケニア。ナイロビのジョモケニアッタ国際空港の到着ロビーで、あたりの様子g、昨年までとどこか違うと感じた。何やら大声で話している人、派手な音に反応する人。

そう、携帯電話を持っている人が格段に増えたのだ。

国際的な場所だけというわけではなかった。街中の路上をはじめ、庶民の足、「マタトゥ」(乗合の小型バス)の車内やスラム地域でさえも、携帯電話を使用している人々が見られた。気のせいか、みな誇らしげだ。

こうした普及の背景にはいろいろな要素が挙げられるようだ。通信業界の規制緩和による競争激化の結果、利用料が大幅に下がったこと。業者側が確実に料金を回収できるプリペイド方式の採用により、加入制限を厳しくする必要がないこと。そして、固定電話は回線開設に時間がかかる上に、不具合が頻発すること。

ケニアでは、1995年には固定電話の1%に満たなかった携帯電話の加入件数が、2000年には11%が超えた。この傾向は、アフリカ全体を見るとさらに進んでいて、2000年の時点で、携帯電話の加入件数が固定電話の約1.3倍になっている(データ出展はNewsweek,Aug.27,2001)。

思い起こせばナイロビ事務所の開設当時、事務所に電話が開通するまでに実に半年間もかかった。今だったら、すぐに利用できる携帯電話を確保した上で、固定電話の開通を待つ、という方法を選ぶだろう。

当時は電話で済むように思われる用事でも、マタトゥや徒歩で出かけて一つ一つ片付けなければならなかった。そのため、何事にも多大な時間と労力を要した。しかし、そのおかげでナイロビの地理が、私たちスタッフの身体に徹底して刷り込まれた。それだけでなく、実に様々な人々と「顔の見える」関係を築くことができたことは、大きな収穫であったと今では思える。

打ち寄せる波は早く、今年の暮れには何とムインギ県でも携帯電話が使用できるようになるそうだ。幹線道路から離れ、電量供給の届かないヌー郡やムイ郡への導入がいつになるかは未知数であるが、IT(情報技術)の波は、すぐそこまで来ていると言える。

アフリカにおける携帯電話の普及の理由を理解はできる。けれども、地域の社会経済の発展を実感できない中で、ムインギ県の人々が携帯電話使用している様子を想像しがたい。それは、私の想像力が足りないためであろうか。


(2001年9月発行 会報第16号「ナイロビ便り」より)



[第14号]2000年のケニアの概況 -干ばつはさらに深刻化、一方では「エイズは国家的災害」との宣言-

1999年からの干ばつは更に深刻となった。水力発電用のダムの水位が下がったため、ナイロビでは、前年は週に3日だった計画停電が毎日となる。工場の操業短縮にともなう労働者の解雇が拡大し、都市の低所得者層の生活に打撃を与えたといわれる。また、生活用水も不足し、数千リットルの水をローリー単位で販売する商売もあらわれた。

村落部では、世界食糧計画(WFP)の協力で、広範囲にわたって緊急食糧援助が実施された。今回は現場の食糧配給までをNGOや国際援助期間に任せ、公務員や政治家は関与しないこととなった。それにより食糧の配給が増えたのでは、という声も聞かれる。しかし、行政、政治家と援助機関との緊張関係が明らかに高まっている。

国際金融機関からの援助再開の条件として、10月からは数万人におよぶ公務員削減が実施されている。ムインギ県のような県庁や、更にその出先機関であるヌー、ムイ郡といった郡の役所でみると、機能できるのだろうかと思うほど公務員が少ない。その公務員が更に削減されて、本当に行政機能が果たせるのだろうか。これによってNGOへの依存体質が強まるのではないか、などと考えてしまうところである。

数年来、ケニアの教育制度は、子どもの学業面でも、保護者や国の経済面でも、負担が大きすぎるので改革すべきである、との批判が国の内外からあげられていた。現行の8-4-4制を以前の7-4-2-3制に戻すというのが大方の観測であった。しかし、9月に発表された初等教育改革は、2001年度からKCPE(ケニア初等教育統一試験)の試験科目を減らし、1日の授業数を減らす程度の変化だった。農業・商業・家庭・図画工作音楽科がはずれ、授業数が削られることになった。

また、「エイズは国家的災害である」と宣言された。1998年、エイズ問題を視野に入れた性教育に関する指針を政府が発表しようとした際は、宗教団体が反対して実現しなかった。しかし、今回はこの宣言を踏まえて、2001年1月より小学校の体育科の中でエイズ教育が実施されることになった。

*年末から順調に降雨があったため、2001年1月にはナイロビの計画停電は終了した。

(2001年3月発行 会報第14号より)