1998年
[第5号]ケニア政府とNGO -ナイロビ駐在員の独り言-

國枝 信宏

歳月人を待たず。早いもので、今年もあと数日を残すのみとなった。まだ一歳にも満たないCanDoが、一般的に NGOに対する風当たりが非常に強いケニアでここまで順調に活動を実施できたのも、会員の皆さんの温かい支援があってのこと。心から感謝したい。風当たりと言えば、ケニア政府はこれまでにも、「NGOは政府のやる事に干渉している」とNGO(国際・国内を問わず)をいわば無差別に批判してきた。実際、ケニアで活動する数あるNGOの中のいくつかは、官僚や政治家の汚職、及び政府事業の非効率性をあからさまに批判し、また往々にして政府の目の届かないところで活動をしている。全てのNGOが「反政府的な」活動を実施しているわけではないとは言え、政府が「縄張り」に敏感になるのは理解できる。一方、 NGO側の政府批判が的を得ている場合が多いのも確かだ。

今年8月のナイロビ爆破事件を境に、ケニア政府のNGO叩きがさらに激化している。あるイスラム系NGOが爆弾の材料の輸入・運搬に関わっていたことが判明したからだ。その後、ケニア政府のNGO調整局は、全国で10団体を超えるNGOを活動停止に追い込んだ。ひと月ほど前、ケニアの最大手日刊紙 “Nation” に、ムインギ県で活動するNGOの記事が半ページにもわたって掲載された。要旨は、ムインギ県では数多くのNGOが活動しているが、政府とNGOの協力が欠如しているため、地域の社会経済に与える効果はごく限られている、というものである。“Little to show in Mwingi despite influx of NGOs” 見出しを目にした瞬間はさすがに焦った。ところが記事を読み進めてみると、CanDoの活動を中塚と私の実名入りで積極的に評価している箇所があった。

スタッフ一同、ほっと胸を撫で下ろしたことは言うまでもない。役人や地元住民との関係作りを地道に進めてきたことが功を奏したようだ。「常温ビールとDDC」(会報第2号の拙稿)もまんざら無関係ではなさそうで、改めて日頃の努力の積み重ねが重要であることに気づかされる。役人に媚びてCanDoの活動理念を見失うことだけは避けつつ、来年も順調に事業を進めることができるよう頑張りたい。

それでは、皆さん良いお年を!

(1998年12月発行 会報第5号「ナイロビ便り」より)


[第4号]アメリカ大使館爆破事件に思う
       
-8月7日金曜日、午後8時過ぎ、ムインギ県から戻ってきて知らされた-

ナイロビ駐在員  國枝 信宏

「今、ナイロビは爆破事件で大騒ぎですよ!」爆破事件当日午後8時過ぎ、何も知らない私たちスタッフが現場出張からナイロビ事務所に戻るや否や、それまで一人で留守番をしていた学生ボランティアに初めて事件のことを知らされた。日本では同じ日の夕方7時(日本時間。ケニア時間午後1時)のニュースで第一報があったというから驚いた。ショックである。250名を超える人々の命が奪われたことはもちろん、私たちが事件に巻き込まれていたかも知れないことを考えるとぞっとする。事件現場は、私たちが毎日のように利用しているマタトゥ(乗合バス)の終点かつ始発点の目と鼻の先である。朝10時半頃に、街中での用事のためにマタトゥから降りて歩いていたり、事務所に戻るためのバスを待っていたりすることは決して稀ではない。ただでさえ治安の良くないナイロビが、さらに歩きにくい街になってしまったのは確かだ。

とは言っても、白昼の路上での強盗や強奪、混雑したマタトゥでの盗難、そして猛スピードで疾走するマタトゥの交通事故など、本当に恐ろしいのはこうした日常的に起こる事件である。考えてみれば、高額の現金を持って街中を歩かなければならない時など、私の表情はおそらく誰も寄せつけないほど恐ろしいものになっているのだろう。

私たちの事務所を初めて訪問する人々は、ケニア人でも日本人でも必ずと言って良いほど「立派な事務所ですね」という感想を残して行く。確かに一般のケニア人の住居と比べれば断然設備の整った近代的なアパートである。しかし、「日本人=金持ち」としか思わない人々が多いナイロビで犯罪から日本人スタッフを守るためには、ある程度高い家賃を払ってでも警備の充実した場所を選ばなければならない。

今回の爆破事件のような大規模な事件であれば、遠く離れた日本でもわずか数時間後に報道される。マスメディアの敏速な対応には感心させられた。反面、この事件はマスメディアが伝えない日常的な脅威について改めて考えるきっかけを提供してくれた。


(1998年10月発行 会報第4号「ナイロビ便り」より)



[第2号]エル・ニーニョの影響について思うこと

理事  澤田 祐介(東海大学医学部教授)

今年に入って2回、1月と3月にそれぞれ2週間ずつケニアとウガンダを訪れました。1月の半ばから末は大雨で大変でした。本来なら乾季のこの時期は、年末に産まれた動物の子どもたちが巣立つため、一番観光客が多いはずなのですが、エル・ニーニョの影響で毎日数時間の日照時間があるだけという、雨季のような気候でした。

ナイロビ市内のインド系の人々が住む地域では道路が20cm以上も冠水し、「インド洋になった」との冗談が出るくらいでした。空港近くの幅6〜7mの川が溢れ、5人もの子どもが溺れて亡くなったりもしました。

インド洋に面したケニア第2の都市、モンバサからコンゴ共和国(旧ザイール)の首都キンシャサを経て大西洋岸まで、広大なアフリカ大陸を横断する国際道路があります。ナイロビやキスムといったケニアの内陸都市ばかりか、ウガンダ、ルワンダ、ブルンジといった諸国へも物資を運ぶ生命線です。この道路の橋が大雨で流され、石油をはじめ全ての物価が上昇し、市民生活にも影響を与え始めてきました。外国人にとってはタクシー料金が1.5倍にもなったことは痛手です。

外国人はともかく、現地の人々にとって、これからの問題は食糧事情です。ケニアの主食はウガリというトウモロコシの粉を蒸したものですが、ウガンダの主食はマトケという生のバナナを蒸したものです。小麦、米、トウモロコシのように、乾燥させたものは貯蔵できますが、生のバナナはそうはゆきません。季節外れの大雨でバナナが立ち腐れでもすれば、たちどころに深刻な食糧危機が生ずるに違いありません。ケニアでの主な野菜のスクマの生育も気になります。

私たちの国が「飽食の時代」といわれるようになって久しくなりますが、アフリカ諸国では食糧の自給にはまだ時間が必要です。地球人口58億人を考えた、真の国際政治はいったい、いつになったら生まれるのか、長雨に閉じ込められた宿舎で考え込んでしまいました。


(1998年4月発行 会報第2号「ナイロビ便り」より)


「第1号」NGO活動の魅力  -ナイロビ駐在員の独り言-

ナイロビ駐在員  國枝 信宏

「どうしてNGOなの?」

とよく聞かれる。アメリカで開発学を修めた後、安定した職に就くだろうと周囲には思われていた私が、何の経済力もないまま結婚してNGOの世界に飛び込んでしまったのだから驚く人は多い。

NGOの何よりの魅力は組織の機動力と活動の緻密さ

ニーズは高いが政府の手の届かない都市スラムや村落地域で、草の根レベルで活動が進められる。また、官僚組織の弊害とはほとんど無縁で、柔軟に活動の軌道修正ができる。活動地の貧困、その他押し寄せる諸問題に圧倒されることもしばしばだが、そんな地域で力強く生きようとしている人々と接していると、逆に応援されている自分に気がつく。

駐在員としての業務は

ケニアの中央・地方政府との折衝、事業候補地での事前調査、ケニア人職員の発掘、会計、日本からの研修旅行の手配、コンサルティング(他のNGOの事業評価等)、そして雑務(重要!)など盛りだくさんの内容だ。もちろんこれらを全て1人でこなすのではなく3人(調整員・中塚と非専従スタッフの妻・美佳)で分担しているわけだが、1人1人が「何でも屋」でありかつ「開発援助専門家」であることを要求されるのは確か。

そんなバランス感覚を磨くことができるのも、NGOの大きな魅力だ。

ただしNGOが「万能選手」だとは思わない

世界の貧困の規模に比べれば、個々のNGO活動はごく小さなものだ。さまざまな批判があるにせよ、国際機関は地球規模の問題解決に必要な枠組みを整え、政府系援助機関は国家レベルで活動を実施し、営利ビジネスは富を生み出す、という役割をそれぞれ持つ。大事なのは、お互いの役割を理解した上でそれぞれ何ができるのかを常に考え実行していくことだと思う。

開発協力は世界の貧困解消に役立っていない、とあちこちで批判される。建設的な批判もあるが、失敗事例だけを取り上げ一方的に非難するものも少なくない。批判するだけでなく実践を通じて改善していく、そんな気持ちを忘れないようにしたい。


(1998年2月発行 会報第1号「ナイロビ便り」より)